幕後筆記

〜『シーディンの夏』をめぐる日々〜
by 鄭有傑


 
     
 


この映画が出来上がるまでの事をまとめてみようと思う。どれだけ忘れたか分からないし、どれだけ誠実に伝えられるかも分からないが、今の僕にとって、こういう事をするのは何かの始まりになるかもしれない。

 
     
 

第1回     ◆第2回     ◆第3回     ◆第4回      ◆最終回

 
     
 


第1回:脚本の始まり

この脚本は初めから完成したわけじゃない。幾つもの小さなストーリーをつなぎ合わせて出来たような物だ。

でも「シーディン」という場所を舞台にしようと思ったのは僕が大学二年生の頃だった。

当時は、文化大学の友達の学生映画に出演していた。確かにそれが始めて映画作りに関わった頃だった。今、自分の演技を思い出すと、「悲惨」以外に言葉は見つからない。ともかく、その学生製作は誰かの親がシーディンに持っている別荘の中で行われた。

朝の六時くらいだった、夜が明けかけた頃だから、季節は秋か冬の始まりだと思う。その別荘のベランダで、自分の出番を待ちながら、シーディンに流れている川を眺めていた。豆腐のように柔らかい形の岩の上で、おばあちゃんが川水で服を洗っていた。街には台北市に出かける大人や学生がいた。道の灯りはまだ消えていなかったし、空気はまだひんやりとしていた。バス停には一人の女子高生がグリーンの制服を着ていて、バスを待っていた。そのグリーンの制服は、台北の「北一女子高」の制服だ。とても懐かしい感じがした。何しろ僕の高校時代のガールフレンドはその学校に通っていたからだ。

遠くて顔こそは見えなかったが、その女の子は僕の興味を引いた。これから彼女は学校に行って、どんな生活を送るのだろう?きっと僕の高校時代のガールフレンドあまり差はないのだろう。授業中にこっそりと文芸小説を読んで、昼休みにはUKロックを聴きながら、英語の単字を暗記しているだろう。放課後は学校から十五分くらい歩いて、塾に通うのだろう。そして台北公園前のバス停で、同じバスに乗ってシーディンに戻ってくるのだろう。家に戻ったらお母さんが漢方薬で煮込んだスープを出してくれて、やかましいと思うほどのお節介をしてくれるだろう。

そこまで勝手に想像していると、とても不思議な感じがしてきた。シーディンは台北市とはこれほど違うのに、ここの若者の思想は台北市の若者とさほど変わりはしないはず。

今思い返せば、きっとこの女の子がシャオツーの元型になっていたのだろう、たとえそれが勝手な想像であったにしても。

しばらくしたら、この事はもう頭の中になかった、ただシーディンの美しさだけが印象に残っていた。それから自分で何度かシーディンに戻ったことがある。蛍を見るために行ったこともあった。何度も訪れてる間にどんどんシーディンの独特の空間的魅力に恍惚した。

東街(映画の中のシャオツーの住んでる街)の奥行きの深い道、川辺に沿って並ぶ柱、古びいた使い道のない階段、時間に取り壊された壁、そこにある全てが失われた物語を訴えていた。

東街で散歩していると、左の部屋からお婆ちゃんが鍋を持って出てきて、道を横切って、右の部屋に入ってゆく。ここでは室内と室外の区別があまりない。いつでも人の家の中を覗いている気がする。

いや、覗かれてるのは僕の方かも。

こういう感じは外国に行った時に感じたことがある。ニューヨークのあるジャズバーで僕が唯一のアジア人だと気付いた時、正にこんな感じだった。「お前は何しに来たんだ?」そんな眼差しだった。

白状する、これは単なる自意識過剰かもしれない。でもその眼差しからこの映画のテーマが生まれてきたと思う。

もしアメリカ人が台北のPUBで、自分が唯一の外人だと知ったら同じ感じがするだろうか?もし僕が外人だったらシーディンの東街ではどんな目で見られる?おそらく何か違うだろう。何の意味のない眼差し。でも見られる方にとっては、これほど自分が「我々」の中に入らないと実感させられる。

文化の違い、いや、それより先立つ何かがそこにある。肌の色よりも、DNAよりも、「我々」という意識がその中に居る人に安全感を与え、外に居る人にこれ以上にない寂しさを与えていた。

僕は大学の歴史の授業の中で、「文化」について色んなことを考えさせられた。その時から自分の文化的アイデンテティーについて悩んだ。この文章を書いてる今はそういう事について、もうあまり関心を持たないけど、シーディンの夏の脚本を書き始めたころは、ひどく「熱かった」。

あの時は、「僕たちは小さいころから西洋文化ののなかで育ってきた。この社会の全て(民主と自由を目標とする政治、テレビ、音楽、教育制度、食べ物、恋愛の仕方、セックスについての考え………)がどうすればより欧米に近づけるかだけを目標にして努力している。」簡単に言えばそんな風に捉えていた。でもやはり「我々」は「彼ら」と何かが違う、決定的な何かが違う。それは人と人の接し方だと思う。外では似てるが、家の中ではまったく違う。「我々」は自分の親に向かって「愛してる」など決して言わない。そもそも「愛」と「LOVE」はまったく違う意味だと思う。じゃあ、僕が親に対する感情とは何か?それは西洋人が親に対する感情と同じだと思う。彼らはそれを「LOVE」と言う、僕は決して簡単にそれを「愛」とは言わないだろう。僕にとって一番大切なものは言葉にできないかもしれない………基本的な感情は世界共通だが、表現の仕方が違う。その違いが「文化」を生んだ。

そんな事こんな事を勝手に考えてる時にこの脚本を書いた。そういう考えは後から映画撮りながら変化して行って、映画が完成したころにはもう関心を持たなかった。 

 
 


 
     
 


第2回:補助金の申請

脚本が出来たら次は資金探しだ。

政府は毎年、台湾の監督に対して補助金の応募がある。当時(1999年)は百万NT(約342万円)の短編補助金、五百万と二千万NTの長編補助金があった。五百万以上の補助金は映画会社じゃないと申請できないので僕には無理だった。そこで当たりやすい百万の短編補助金を申請することにした。

当時は三つ撮りたい脚本があった。実を言うと「シーディンの夏」はその中で一番撮りたい脚本ではなかった。しかし予算のことを考えると「シーディンの夏」は百万で撮れる可能性が一番高くて、脚本の完成度が一番高くて、さらに、政府の審査員にとっては一番ウケやすい脚本だった。もし僕のことを投機者といえばその通りだった。何故なら一番撮りたいものを申請したんじゃなくて、受かる可能性が高いものを選んだからだ。でも受からなきゃ何も始まらない。資金がなきゃ脚本は脚本のままだ。

補助金の申請には以前の作品、プロフィール、脚本、それから企画書を提出しなければならない。

企画書を書くのは正直言って苦手だが、いろんな勉強になった。今でも企画書を書くことによって自分の表したい事、予算の把握、ストーリーの成り行き等がよりはっきり見えることがある。企画書を書くにはかなり念を入れた。これが唯一の、審査員に自分の誠意と計画を表すチャンスだったからだ。誤魔化しは通用しないと思った。自分が本当に出来ることだけを書き、それを如何に完成させるかをハッキリ書いた。

それでも企画書の提出から結果の発表までの時間は耐えがたかった。僕は全く無名だし、まだ学生だし、更に映画学校じゃなくて経済部の学生だった。一生懸命補助金のことを忘れようとした。さもないと期待する、期待をすれば失望する。だから何か仕事をしたり、DVのショートを撮りながら自分を暇にさせなかった。今でも同じだ。映画祭の申請や企画書を提出す度にこの事を忘れようと必死になる。

補助金に受かった事を知らされたときは跳び上がるほど喜んだ。いや、実際跳び上がった。

あの日は天気が晴れてて、友達と餃子を食べてた時に、携帯に電話が入ってきた。

「鄭有傑様ですね?あなたは今年の短編補助金映画に受かりました。」あまりにもさりげない調子で言われたので、ピンと来なかった。友人の誰かの悪戯だと思った。いや、こんなセンスのない悪戯をする奴はいないだろう。念の為に「本当ですか?冗談じゃないですよね?」と電話の向こうの人に聞いた。実に失礼だった。「冗談じゃありません、」相手がクスッと笑った。「7月15日に印鑑と身分証明書を持って、国家映画資料館へ契約に来てください。」「はい。どうもありがとうございます。」と答えた。そして電話は切られた。僕はしばらくボーっとして、信じていいのか迷った。一緒に餃子を食べてた友人に「どうしたの?」と聞かれた。「………受かったんだ。」その言葉が口から出たとき、自分が震えてるのに気付いた。喜びのエネルギーが体中に有り余って抑えられなかった。食堂から飛び出して太陽の下で何回もジャンプしながら大声で叫んだ。

チャンスが与えられたのだ。

その喜びは一年後、金馬奨を取ったときより遥かに上回っていた。


 
     
     
 


第3回:撮影の準備

自分が受かったと知ったら、早速撮影の準備に取り掛かった。

企画書と脚本を取り出して読み返してみたが、笑い出す程未熟と思った所がいくつもあった。何しろこれは半年前に書いたものだからだ。今の自分が満足するように何度も脚本を直した。当然、編集する時にストーリーの構造など大きく変わるのは事前から知っていたが、それでも脚本を直すのに念を入れた。僕にとって脚本とはスタッフや俳優とコミュニケーションを取る大事なものだから、ある時は俳優用の脚本とスタッフ用の脚本を書く時もあった。俳優用にはキャラクターの考えている事など細かく書き、スタッフ用には視覚と聴覚などどういう風に表すか詳しく書いた。

それと同時にスタッフを集めるのも急だった。幸い、当時「LOVE ME TONIGHT」という、友達の映画の製作に参加したばかりで、若いインディーズ映画のスタッフ達と知り合った。殆んど「LOVE ME TONIGHT」のスタッフをそのまま「シーディンの夏」の製作チームに移した。台湾では映画を撮るチャンスなんて余りないので、みんな喜んで手助けしてくれた。もう一緒に仕事した経験があるので、お互いの性格を既に知っていた。

 
     
     
 


第4回:撮影監督・張展(チャン・チャン)の加入

主なスタッフメンバーのリストはすぐに出来た。撮影&ライティング:葉斯光、録音:周震、副監督:唐宜蕾………。

全てが20-30代の若者ばかりだった。そして僕はその中で一番若くて、一番経験が足りなかった。

不安だった。

「シーディンの夏」は僕にとってかなり大きなプレッシャーがあった。もし上手く撮れればこれから映画という贅沢な夢をかろうじて続けられる。もし失敗して、これ以上の借金を背負いば、潔く諦める。大げさと言えばそれまでだが、大学を休学する前に決めていた事だ。他にもやりたい事、やるべき事が沢山あるし、大学を放棄してまでチャレンジするのは自分でも勿体無いと思う。

それと、前作の「BABYFACE」にはかなり不満があった。この二年間自分がどれだけ成長したか、証明したくてたまらなかった。

最善を尽くそうと思えば、もっと緊張する。自信がなかったのだ。誰かに叱ってもらい、誰かに頼りたかった。

そこで、チャン・ツォーチ監督の「ダークネス&ライト」の撮影監督張展(チャン・チャン)を思い出した。あの映画を観たとき、映像にマジックが溢れていた。そのマジックは「シーディンの夏」にも必要だった。

今まで一緒に仕事してきた、僕の恩師でもある葉斯光(イェ・スークァン)には申し訳なかったが、思い切って張展さんに撮影監督をお願いしようとした。この決断が下るまでには凄く迷った。インディーズをやってる人たちは情を重んじる。「俺がいるのに何故撮影監督が必要なのか」と葉さんに聞かれたら返す言葉がない。

とりあえず僕は張展に連絡してみた。彼の会社(中央電影公司)に電話して、会社の外のバーガーキングで会う約束をした。

その日は晴れていて、僕は「シーディンの夏」の脚本と「BABYFACE」のビデオをリュックに入れて、張さんに会いに行った。

また緊張していた。

張さんは50代後半の、いかにも「職人堅気」といったような方で、髪が白くて、肌が黒くて、山のようにズッシリとした体形だった。普段は口を「へ」の字に堅く結んで無言だったが、目は常に人を射抜くような目つきだった。「この人は絶対に倒せない」と言う印象を与えるような方だった。

そして肌白い、ヒョロヒョロした、いかにも坊っちゃん学生といったような僕が、彼に向かい合って座っていた。この何の経験もないヒヨコが、父親にもなれるような彼に、力になって欲しいと頼もうとしている。

想像して欲しい、その頃の僕がどれほど緊張していたのかを。
彼は僕の緊張を察してくれて、彼の食べないポテトフライを勧めてくれた。
僕は早速脚本とビデオを渡し、彼は一週間かけてじっくり見ると言って彼のカバンにいれた。

そして「俺は一緒に仕事する相手を知らないといけない。まず君の身の上を話してごらん。」と言った。

僕は自分の事をベラベラと順序なく打ち明けた。映画経験が少ない事、坊っちゃんである事、休学した事、僕と日本の繋がりの事(彼は外省人だったので、どう反応されるか心配してたが、彼は全然気にしていなかった。大抵の外省人は日本嫌いの傾向があるからだ。)、そして葉さんとの関係も打ち明けた。

そして彼は彼の身の上を話してくれた。

この道30年のベテランということ、今の台湾映画の哀れさ、彼の映画哲学など、結局彼の方がよく喋った。

彼は葉さんの事は心配しなくていいと言ってくれた。彼の方から葉さんに説明すると言った。実は三年ほど前に彼は葉さんと合作したことがあるのだ。当時、葉さんは彼のカメアシを務めていて、とても良い合作経験だったらしい。その後、彼は葉さんは最近どうしてるのかと聞いて、今、淡水でコーヒーショップをやっていますと答えた。「じゃあ、この何日かにコーヒー飲みに行くよ。」と言った。

そして彼とは一週間後にまた会う約束をしてくれた。

一週間後、彼はあっさりと手助けしてくれることを同意してくれた。

「多分、毎日現れることは出来ないよ。」と言ってたが、実際毎日来てくれた。ロケーションの選び方や、カメラアングルの使い方など、彼は自分が知っている事を全て僕に教え込もうとする熱意が感じられた。

指導先生のような役割をしていたが、よくライティングなどにも、ちょっとした工夫をしてくれて、画面をより美しくさせてくれた。撮影現場に、彼のようなベテランがいてくれて本当に助かったと思う。

 
     
 


最終回:キャスティング

僕は脚本を書いてるときに、よく自分と主人公を重ねる事がある。だからシャオツーのキャストを考える時に、自然に、自分に似たような俳優に目を留めることが多かった。
実際当時のシャオツーのイメージに合う俳優は何人かいたが、どれを取ってもなんとなくピンと来なかった。彼らはとてもいい俳優だが、この役を演じさせるには「意外性」が足りなかったと思う。
シャオツーはもともと、どこにでもいる平凡な台湾の大学生の設定だった。だからこそ難しい。誰にでも演じて、結局は観客に忘れられる恐れがある。もうちょっと個性が欲しい。
そこである日、脚本と撮影技術(当時はDVで撮ってフィルムにキネコする考えがあった)を討論するためダイ・リーレンを訪れに行った。
彼は僕に撮影準備は順調に行ってるのかと訊いた。
「肝心な主人公がなかなか見つからないんだ。」と僕は言った。
「前回みたいに自分で演じないの?」彼は明るく微笑みながら訊いた
「いや、それはもう懲りごりだ!もう絶対しない、二度としない!」
彼はワッハッハと笑った。僕の云わんとする事を知っているのだ。

「じゃあ、一体どんな俳優が欲しいの?」
「うーん、僕に似ていて、もうちょっとワイルドな奴がいいな。」僕は首をかしめながら言った。

「ふーん、ワイルドな奴ね………」
彼はちょっと考え込んだ。何か名案あるなと僕は期待した。
「………この前、友人の舞台劇でとびっきりイイ俳優を見たんだ、でも君の役に会うかどうかは分からないけどね………DVあるんだけど、良かったら観る?」

もちろん観るとも!
そして僕は彼のDVの小さなモニターで初めてファン・チェンウェイに出会った。
チェンウェイはその舞台劇ではセリフの一つもなかった。ただシーンとシーンの間に出てきて、鏡の中の自分を見つめたり、服を着替えたり、時には観客を長い間見つめた。
彼は舞台劇の中で皮ジャンを着ていて、髭を生やしてて、腰にはチェーンを付けていた。
僕は彼のその姿に見取られていた。目が鋭くて、自信にありふれていて、オーラが伴なっていた。コイツは凄い、若い頃のアルパチーノを一瞬頭に浮かべた。

「コイツなら将来俺を越すかも。」ダイ・リーレンは淡々と言った。冗談半分にも聞こえたがその可能性はないともいえない。でも………
「………でもワイルドすぎる。」僕はモニターを見ながらこう言った。
チェンウェイはその時、モニターを越して彼のそのオーラを渾身の力で放っていた。何かを宣言してるようだ。そしてその宣言は信じる者にとっては予言のようにも聞こえた。

DVが終わった後、僕は考え込んだ。
「ありがとう。………彼は本当に良い俳優だよ、今回は使えないけど何時か絶対合作したい。」
「いいよ別に、俺ももしかしてと思って見せただけから。」ダイ・リーレンは微笑みながら何ともない調子で答えた。
そして我々は当時流行りのキネコの技術に話題を移した。

家に帰った後、僕はあの日の出来事をもう一度頭の中で再生した:チェンウェイを見た時の震え、ダイ・リーレンの意味ありげな冗談、そして僕が最後に言った一言「今回は使えないけど何時か絶対合作したい」………

でもその肝心な「今回」が未だ成り立たない。いや、今回を見逃して、果たして次回があるのか?「シーディンの夏」は背水の陣とも言える。以前にも言ったように、この映画が失敗するにせよ、うまく行くにせよ、完成した後、僕は学校に戻って経済学を卒業するという約束をしていた。もしうまく行かなかったらきっとこれが最後になる。
そう思うと、僕はベッドから起き上がってPCのスィッチを入れて、脚本のファイルを開いた。
そして一シーンづつ、シャオツーとチェンウェイの姿を重ね合わせて、ページをスクロールしていった。
映画が頭の中で再生していった。それらの画面には力があった。どことなく不協和な、衝突性のあるシャオツー。
そうだ、今まではこの衝突性が足りなかったのだ。内心、色んな欲望や幻想が駆け回ってるのに、それをどうしたらいいか分からない不器用さ、これが足りなかったのだ。

次の日、僕は早速ダイ・リーレンを通してチェンウェイと連絡をとった。その時点ではやはり迷いがあったが、とりあえず会ってみようと思った。

電話を掛けてたら、チェンウェイが低くて渋い声で出た。
僕が自己紹介すると、彼が「知ってるよ、ダイ・リーレンが君の事話してたよ、BABYFACEのビデオも見せてもらったし、あの映画良かったよ。」と言った。
なんと、さすがリーレン。手が早い。
そうと来たら話は早い。早速、待ち合わせの場所を決めようとした。
そしたら彼は「ビリヤードやる?」と訊き出してきた。
僕はビリヤードが大好きなので(台湾ではビリヤードが流行っています。)、ビリヤードしながら話す事にした。

なんとも変わった話だ、オーディションでビリヤードなんて。度胸がいいのか?それともただ窮屈なオーディションが嫌いなのか?

いざ会ってみると、実は二人とも緊張していた。それはビリヤードをやればすぐに分かった。僕同様、彼も簡単なショットをミスする。緊張してる証拠だ。
それでも僕より彼のほうが断然上手かった。
彼のショットは迷いがなく、力がこもっていて、そして正確だった。
それに対して僕は柔らかくて、テクニック重視で、そしてはっきり言って下手だった。
でも一緒にビリヤードをやってるうちに彼の性格が分かってきた。
外見は大人のように振舞ってるけど、内心は未だ子供のままという事;自分を未だ完全に理解してないけど、自分を信じること;そして何があっても前に進む姿勢。
僕は心の中で、彼にこの役を演じさせる事を決めていた。実に興奮していた、別に負けた為の言い訳をするんじゃないけど、手が震えてろくに玉が撃てない状態だった。
しかし念の為に一週間待ってから彼に知らせたい。この場で彼にOKするのはあまりにも冒険だ。

ゲームが終わった後、僕は彼に言った、「絶対何時か合作しようぜ。」と。
そしたら彼はこう返した:「何時かなんて待ち遠しいよ。できれば今回合作しよう。」
全く度胸がいいのか、自信があるのか、素直なのか。普通こんなセリフ口にしないぜ、と僕は思った。
でも僕の答えは意外だった。

「ああ、いいよ。じゃあ、シャオツーの役頼んだぜ。」

おいおいおい、何自分までカッコつけてOKしちゃうんだよ、と僕は自分の早とちりに大きな危険を感じたが、不思議に後悔な気持ちは一つとなかった。むしろホッとした気持ちだ、晴れた気持ちだ、それと期待に溢れたワクワクするような気持ちだった。そして後になって、自分の決断は全く正解ということを知った。

それ以来、今に至って、僕とチェンウェイはよく一緒にビリヤードをするようになった。言うまでもなく、殆んどのゲームは彼が勝った。

 
     
 


四年前シーディンのバス亭で見かけた女子高生についてだが、この女の子は今どうしているのだろう?僕がこのエピソードを台湾のサイトに載せた後、シーディンの小学校の学生からメールが来て、「あのお姉ちゃんは今、国立大学に通ってるよ、」という知らせが来た。

 
     
     
 

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